不正な裁判官のたとえ(ルカの福音書18章1節から8節)から

 

時々、ベトナムで説教(英語=>ベトナム語同時通訳)をしています。

次回はこのテーマで教会で話すつもりです。

このたとえ話の状況は、多くの日本にいるベトナム人技能実習生や留学生の状況そのものでしょう。

なぜなら、やもめ、みなしご、在留異国人は1セットなのですから。

日本にいるベトナム人で苦難に満ちている方々にも、このメッセージが分かりますように。

真の救いがありますように、心よりお祈りいたします。

 

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こんにちは。この1週間どのように過ごしたでしょうか?皆様にとって良い日々だったらよいのですが、

私たちの日常生活においてはつらい事、苦しい事が多々ありますね。不公平な現実に対して、

いったいイエス様はどのように仰っていたでしょうか?

 

イエス様は私たちの目を開くため、多くの場合たとえ話で弟子や群衆にお話されました。

実はルカの福音書の中にとても面白い箇所があります。正しく意味を読み取るのは難しいのですが、

今日はそこから、主のみこころをお話してみたいと思います。

 

聖書箇所は、ルカの福音書18章1節から8節

1.いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、

イエスはたとえを話された。

2.“ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

3.その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては

“私の相手をさばいて、私を守ってください”と言っていた。

4.彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに

“私は神を恐れず人を人とも思わないが、

5.どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために

裁判をしてやることにしよう。

6.主は言われた。“不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

7.まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、

いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

8.あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをして

くださいます。

しかし、人の子の来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。”

 

これを皆様はどう理解していますか?まず、表面的な意味については簡単ですね。

普通に読むと正しいさばきがある終末の時まで、忍耐強く、気落ちせずに、祈り続けましょうと

読み取ることができます。それ以外には読めないと思います。

 

でも、問題があるのです。

 

最初の問題は、ルカ17章20節から18章30節にかけて、全部“神の国”についてのたとえ話で

一貫しているのです。ですから主題は“神の国はどのようなものか?”です。

だから18章9節以降は謙遜などを教えていますね。確かにやもめは保護されるべき対象でしたが

彼女は“私の相手をさばいて、私を守ってください”という“自己主張”しているようにも読めます。

“自己主張を祈り続けなさい”という意味でしょうか?そんなはずはありません。

この問題を1番としておきます。

 

次の問題は、なぜ“不正な”裁判官なのでしょう?ここで比較対象されているのは神ですから、

もし本文が“正しい”裁判官の話であったならばよくわかります。そうですよね?

裁きをつけてあげたのですから。

でも、うるさくて、煩わしくて、攻撃的なやもめへの“妥協”だというのですから

やっぱり彼は自分の事しか考えていない不正な裁判官です。だから神と等しくはできません。

この問題を2番とします。

 

さあ、解き明かしてみましょう。

 

1.“何を”神に訴え続ける・祈り続けるのか?

 

この文章から、このやもめを責め立てている人がいるのは分かるでしょう。

ベトナム語や英語やギリシャ語では敵と書かれています。

では、私たちが祈り続けなければならない事と何でしょうか?

やもめは敵をさばいてくださいと訴えていますが、3節;

 

Trong thành đó cũng có một người đờn bà góa, đến thưa quan rằng:

Xin xét lẽ công bình cho tôi về kẻ nghịch cùng tôi.

ベトナム語での意味は、Justify meです。日本語でもそう翻訳されています。

“私を正しく取り扱ってください”、または、“正しい者としてください”です。

 

でも、ギリシャ語原文の意味はAvenge です。AvengeというのはRevenge(復讐)に似ているのですが、

Revengeが自分の恨みをはらす仕返しに対し、Avengeというのは不正や悪事に対しての

正当な仕返しをしてくださいという意味です。誰がですか?

聖書内で同じ単語が使われているところを2か所だけ見てみましょう。

 

黙示録6章10節から11節;

10 Chúng đều kêu lên lớn tiếng rằng: Lạy Chúa là Ðấng thánh và chơn thật,

Chúa trì hưỡn xét đoán và chẳng vì huyết chúng tôi báo thù những kẻ ở trên đất cho đến chừng nào?
11 Có kẻ bèn cho họ mỗi người một cái áo trắng dài; và có lời phán rằng phải ở yên ít lâu nữa,

cho đến khi được đủ số người cùng làm việc và anh em mình phải bị giết như mình vậy.

 

もう一つはローマ12章19節から21節;

19 Hỡi kẻ rất yêu dấu của tôi ơi, chính mình chớ trả thù ai,

nhưng hãy nhường cho cơn thạnh nộ của Ðức Chúa Trời;

vì có chép lời Chúa phán rằng: Sự trả thù thuộc về ta, ta sẽ báo ứng.
20 Vậy nếu kẻ thù mình có đói, hãy cho ăn; có khát, hãy cho uống; vì làm như vậy,

khác nào mình lấy những than lửa đỏ mà chất trên đầu người.
21 Ðừng để điều ác thắng mình, nhưng hãy lấy điều thiện thắng điều ác.

 

よろしいでしょうか?このイメージです。やもめの訴えはこのような訴えだったのです。

 

もう一度、ルカ18章3節;

Trong thành đó cũng có một người đờn bà góa, đến thưa quan rằng:

Xin xét lẽ công bình cho tôi về kẻ nghịch cùng tôi.

これ、わからないです。。でも、ローマ書と黙示録を読むと意味がよく分かります。

 

ローマ12章のような“信仰の姿勢”すなわち“神に全てをゆだねるという姿勢”を

神は善しとされたのであって、しつこく神に祈れば聞いてくださるというような行為や、

自己主張や自己弁護を善しとされたのではありません。

また黙示録6章のような神の義の実現への訴えを善しとされたのであって

自分の利益ではありません。誤解してはなりません。

 

逆に、全てをゆだねた者は必ず祈るようになります。信仰の姿勢が大切なのです。

いや、信仰そのものが大切なのです。だからルカ18章8節に繋がるのです。

 

2.なぜ不正な裁判官なのか

 

私たちの世の中は不正に満ちています。裁判官が不正な者であっても何も驚きません:)

不正な裁判官の話はルカ18章9節以下に繋がるというよりは実はルカ17章20節から繋がっていて、

そちらに近いです。特にルカ17章21節;

21 và người ta sẽ không nói: Ở đây, hay là: Ở đó; vì nầy, nước Ðức Chúa Trời ở trong các ngươi.

 

ギリシャ語ではこのnước Ðức Chúa Trời ở trong các ngươi.の部分はin the midst of you になります。

between youの事です。ここも理解が難しいところです。

 

新約聖書全体からは、敵をやっつけてくださいという考えに至りません。

敵が悔い改めて最後の日までに神に立ち返るようにと祈ります。

 

ただ、私たちには、このような、敵をも愛するアガペーの愛がありません。

私たちは、塵にすぎないのですから。私たちの愛は、人間的なフィレオーの愛のみですから。

それゆえ神に中間に立っていただかないと隣人を愛せないのです。

だから、人と人の間に神の国があるのです。だから神が必要なのです。

 

ではルカ17章21節から考えた場合、神から善しとされた

やもめによる不正な裁判官に対する訴えというのは、何だったのでしょうか?やもめは、

自分の敵が神の義に立ち返る、すなわち“悔い改めるように”と、

それでももし敵が神の義に立ち返らないなら、

イエス様の再臨の日にどうぞ裁いてくださいと強く訴えたのです。

そして、神はその信仰を善しとされました。

 

私は、そう信じます。これがこのたとえ話の真の意味であります。(ルカ13章6節-9節も参照)

 

これで、なぜ善い裁判官ではなく不正な裁判官だったのかが分かると思います。人と人の間に立つのは

“神の国”または“神”であって人ではないのです。

正当な訴えに対して正当な判決を下すのも神の義を実現させるのも、人によるのではなくて神なのです。

一人として神の国を実現できる人はいない。だから“善い裁判官”がいるなどというのは

間違った考えなのです。

 

もしこのたとえ話をベトナムの事だと思う人がいたとしたら、その方は正しいでしょう:)

でも、あなたがやもめの立場でこのたとえ話を聞いている限り、あなたは神の国から遠く

あなたこそが神からAvengeされるべき敵であると分かった時に、

また、あなたこそが日々悔い改めるべき不正な裁判官そのものだと分かった時に、

また、あなたこそが神に間に立ってもらわないと隣人と愛ある関係が築けない罪人であると分かった時

このたとえ話の本当の意味が分かるばかりではなく、“あなたに”、真の救いが訪れるのです。

 

イエス様がこのたとえ話を話された真の目的は、そこにあります。

信仰によって、皆様と隣人との関係が見直されますように。

 

お祈りします;

 

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皆様による彼ら彼女らへの解き明かしがなされることを、お祈りしています。